時代の気分 Market Scope vol.174 Oct. 2011  文:石丸 淳

今時の子供事情

近頃テレビ・映画と、子役の活躍がすごい。共演した大人の俳優たちが舌を巻き、見ている方もすっかり感情移入してしまう程の演技である。この10年ぐらいだろうか。特にそういった子供たちが増えているような気がする。テレビドラマの世界では、ありとあらゆることが出し尽くしてしまった感があって、多くが漫画の原作に走ったり韓流に倣ったりと、どこもコンテンツ不足に泣き、このご時世で製作費も萎む苦しい状態が続く。そこで、コストも安い芸達者な子供と動物に頼らざるを得ないのだろう。

もちろん、いつの時代にも優れた子役はいた。だが、それはほんの一握りであって、多くの子役たちは細かな感情表現が出来なかったり、明らかに何方かのコネによって無理やり登場したのではないかと思える程、ただセリフの棒読みに過ぎなかったりしたものだ。だからこそ、その時代の有名な子役というのは大きく頭抜けていた。しかし、その有名だった子役たちはある意味で大人び過ぎていて、普通に考えれば「有得ないだろ、それは!」という例が多く見られた記憶がある。

一方、今の子役たちは、クールに大人びた部分を持ちながら、大人たちが求める“子供の演技”をしているのだ。それは実に多くの優秀な子役たちが活躍する中、ただ大人っぽく演技をしただけではもう魅力にはならないからなのだろう。それにしても、就学前の子に映画のプレミアの仕切り、MCを任せることなど一昔前には考えられなかった。親なのか事務所なのか受ける方も受ける方だが、やらせる方もやらせる方である。そしてそれを立派にやり遂げる子供もすごいものである。

近年、こうした“出来る子供”は少しずつ低年齢化しているように見える。大分以前からステージ・ママという言葉があったが、まず間違いなくかつてのこの類に当たる親は自分の欲望として子供を“スター”にするという目的意識が強く、本人(子供)の自覚以前に自己(親)の意識を投影し、スパルタで相当無理を強いている風に見えていた。しかしこのところの例では、子供本人が望んでこの世界に入ることが多くなっているそうだ。そのためなのか、そうした子供の親だからなのか、表に出てこない親が多いらしい。

昔で言えば“ませた子供”だが、普通に大人と話が出来る子供というのは、やはりその環境によって生まれるのではないかと思う。自らの子供時代を思い返すと、確かに必ずクラスに1人や2人は器用に大人とコミュニケーションを取る輩がいた。悪く言えば、大概お調子者で取り入るのが上手い子である。大人たちの枠の中での子供社会で、そつなく泳ぎ回る(あるいは泳ぎ回ろうとする)タイプで、さしずめ磯野家のカツオが近いだろうか(でも、これは大人になったらそう上手くは行かなかったりもするのだろうが)。

豊富なボキャブラリーと様々な知識を得るということについて、一番大きな要因はテレビであることには疑いがないが、その子供を取り巻く親の環境というのも大きく反映されているに違いない。因みに私の友人には2人の子供がいるが、この家はとにかく大勢の人が出入りする家だった。しかしこの家ではテレビを見る習慣が殆どなく、母親は俳優の舘ひろしを紹介された際、「で、お仕事は何を?」と訊ねたり、ダライ・ラマとサイババの区別が付かないなど、数々の逸話を残す浮世離れした家族である。

しかし、毎日のように多くの友人たちが出入りする環境で育った子供たちは、幼少の頃からどんな大人とでも物怖じせず会話の出来る素晴らしい子供に育った。その反面、親の愛情を目一杯浴びてまっすぐに育ったため、どちらかと言えば少し幼さを残す“スレていない”子供だ。これはこれで大変素敵なことなのだが、当の両親の思いはどうなのか、この子たちが成人したら一番聞いてみたい質問である。

前述の今時の子役たちの親も、しっかりと子育てを行い、本人の希望であることをきちんと自覚させ、一般社会の常識としていろいろなことを教育しているようだ。何はなくとも礼儀だったり、人への思いやりであったりと、普通の子供よりも早くからそういったことを学んでいくのは、何かと閉鎖的な芸能界で、ともすると常識のないちょっとおかしな人間に育ってしまうことを防ぐ意味でも素晴らしい。そして、仕事を通じて社会を見、大人の俳優や製作スタッフに接することが何より子供達の成長に繋がるだろう。

その一方で、悲しいことに子育てが出来ない親が多くなってきていることも事実である。親が子供の命を奪うということ自体は、数値の上では戦後から減少し続けているものの、ネグレクトや虐待など、質が変容しているのは間違いない。これは親の幼さが原因なのだろうか。事件が報道されるたびに二極化された子供たちのことを思うと胸が痛む。どうすれば幸せな子育てに繋げられるのか、取り組むべき課題は多い。