時代の気分 Market Scope vol.176 Dec. 2011  文:石丸 淳

香り、あるいは匂いの記憶

この十数年ぐらいだろうか、毎日ものすごく沢山の夢を見ているような気がする。沢山というのは、ちょうど短編映画のようなものを、10本立てぐらい見ているような感覚と言えば良いだろうか。 かなりリアルな登場人物であったり、物事であったりするようだから、目覚めた時にはぐったり疲れていることが多いのである。 “するようだから”というのは、起きた時にその記憶をぐいぐい引っ張り戻さないと、あっという間に雲散霧消してしまって思い出せなくなってしまうからなのだが、その思い出せなくなった夢が後々デジャヴュとなるのであろう。

目覚めた時の疲れ具合は、きっと夢の内容によって違うと思われるのだが、確かに興味のある女性が出てきたりすると、何だかその夢を忘れたくなくて必死で記憶を呼び戻し、心に留めようとしている自分に、“ハッと”気付くこともある。 だが、それは甘く耽美な時間なら良いのだが、ものすごく現実的なものから、全くあり得ないようなシチュエーションだったりもするから、もしかすると自分の深層心理にそういった願望があるのか、とうっかり喜べない場合もあるのでビミョーではあるが、夢、ではある。

つい先日の朝、目覚めたら、妙に温かな気持ちであったことに驚き記憶を呼び覚ますと、夢で一緒にいたのは父親だった。 その記憶の中に父親の懐かしい匂いを感じたのである。もしかすると似ているかもしれない自分の体臭によるものかと訝りつつ、父と二人で暮らした子供時代のことを思い出した。 最初の離婚をした父親が一人暮らしをしていた外国人向けアパートにいきなり転がり込んだためにしばらくは同じベッドで寝ていたのだったが、その時の匂いの記憶だろうか。 それは酒の匂いが殆どであったようにも思えるのだが。

普通、“匂い”(特に臭い)というとあまり良くない場合に使われる場合が多い。一方、“香り”といえば間違いなくそれが良い場合に使われている。 この、“父親の匂い”というのは間違いなく体臭を基本としているが、そこに化粧品だったり(それは必ずしも男性用に限らない)酒や食べ物の匂いも混ざっていたかもしれないのだが、何だかとても懐かしく、そして安心する匂いだった。 そんな匂いを夢の中の記憶として感じたことに驚きつつ、久しぶりに父親の優しさを思い出したのだった。

匂いの記憶には、それぞれの家庭の匂い、街の匂いなど身の回りに多くの要素がある。これらの多くはやはり食べ物によって構成されているのだろうか。 食にまつわる日本らしい匂いは、醤油や味噌、糠、麹などの発酵系を中心にしたものが日本の食文化を彩ってきたが、少し形を変えたものが近隣諸国にもあり、それらはアジアの匂いと言っても良いと思う。 しかし、そうしたアジアの国々から日本、とりわけ東京は逸早くアジアの匂いをなくしてしまったように思う。つまりよく言われる食の欧米化ということになる。

もちろん街の匂いは食べ物だけではない。例えば身近だった渋谷の街も'60年代はまだ雑多なすえたような匂い(臭い?)だったと記憶するが、'70年代に入ってパルコが登場したりすると明らかに女性の匂い(この場合は香りと言った方が良いだろうか)、それは化粧品やシャンプーなどの匂いが街に漂っていた。 その後、'80年代に入って初めて行ったイタリア、例えばミラノの百貨店“ラ・リナシェンテ”の売り場と似た匂いが、同じ'80年代後半の日本の百貨店でも感じられるようになってくると、今で言うところのグローバル化という雰囲気を感じ取ることが出来た。

渋谷の食べ物の匂いで一番記憶にあるのは、今は無き東急文化会館1階にあった『ユーハイム』である。小学校の帰り道、ガラス張りのオーブンの中で焼かれるミート・パイのバターの香りが辺り一面に漂い、前を通らずにはいられなかった。 今度建つ「渋谷ヒカリエ」の中には入らないのだろうか。ミート・パイは千駄ヶ谷でしか購入できなかったが、今年に入って玉川高島屋に『バームクーヘン・カフェ』というのを開いたので、そこで食することが出来るのだが残念ながら温め方が上手くない。 自分で買ってレンジではなくオーブンで温めた方が美味しい。

恐らく街の匂い、香りというものはその時代の流行り廃りに大きく左右されるに違いない。 女性化粧品のブーム、食べ物のブーム、とその街を構成する人々の嗜好や、それに合わせてモノを売る側の論理によって創られていくものかもしれない。 だから時代時代によって記憶される匂い、香りも変わり、時代がそこに織り込まれていくことによって時代の構成要素の一つともなっていく訳である。 たまたま夢で思い起こした記憶から、人の持つ匂い、香りの記憶もバカにしたものではないな、と思ってしまった。

現在の渋谷駅周りでは東急東横店の宮益坂側にシュークリーム屋がバターの香りを放ってはいるものの、匂いは総じて減ってきているのが実情だ。 強い匂いに対して無頓着ではいられなくなったということなのだろうが、近年で周囲に対して匂いを放つ飲食店の多くはすでに失った“アジアの匂い”(アジア料理系の店)だったりするところが何とも皮肉ではある。 これらの匂いも、いつか誰かの脳裏で記憶され、懐かしさや美味しさとして思い出されることがあるのだろうか。だとすれば人の記憶に残る“匂い”というのもなかなか魅力的なものである。