時代の気分 Market Scope vol.186 Oct. 2012  文:石丸 淳

終い支度

この2、3年程で、「終い支度」や「エンディングノート」、「終活」といった言葉をよく聞くようになった。それは前者が中村メイコさん作の書籍『人生の終いじたく』として発売されたことや、後者は映画となったことなどで特に知られるようになったのだろう。若いうちは、そんなことは夢にも思わず、自分の死について真面目に向き合うことなどない。恐らく殆どの人は自分の家族の死を経て、そういったことを考え始めるのではないだろうか。ただ、それも面倒なことが起こらなければ、そのうちに忘れ去られていくのだろうが、歳を重ねてまた近くなるのだろう。

筆者の場合も、15年近く前に父親を送った時に初めて自分の死というものを考え始めた。それまでの他の親族などの場合ではそんなことを思わなかったのに、呆れる程自分の死について考えるようになった。その父親は癌でこの世を去った。今や2人に1人が癌になると言われる時代であるし、治療法も日々進化していて、恐れるものではなくなった。それでも癌細胞を根絶できなければ、何れ死はやってくる。その場合は時間に限りがあるのだ。父親の場合は、何かの雑誌のインタヴューで「競輪の最終周で鳴る鐘が頭の中で鳴った」と表現している。

もちろん事務所などの引継ぎや遺品の整理といったようなことは大変だったが、“送る”ということに関しては、実は父親のマネージメントをしていた会社が取り仕切ってくれたので、東京と福岡で総勢5,000人を超える盛大な会をしたにもかかわらず、遺族はただそこに参列、そして彼らの指示に従えば良かった。今にして思えば、そんな優秀なマネージャーたちのいる環境だったこともあるけれど、何よりエンディングノートのようなメモを残してクレタお陰だったのである。それはある日、父親がノートを買ってきてくれ、と言ったことから始まった。

体調が見る見る衰えていく中で、やはり自分でもその変化を認めざるを得なかったのか、この世を去るおよそ2か月前のことだった。そこには「葬儀の花はオレンジと黄のみ、菊の花など以ての外」といったことや、「お線香など厳禁」、そして「自分は本当はやって欲しくはないけれど、きっと“送る会”のようなものが催されてしまうだろうから、その際に弔辞を述べてもらうのはこの4人」と具体的な人選までされていたのだった。その時は、そんなことに触れて欲しくはなかったというのが正直な気持ちだったのだが。

夕方に息を引き取った父親は、その数時間後には自宅へ帰ることとなり、一応身内だけで通夜を行う予定となっていたのだが、延べで250人近くが訪れることになった。果たして、問題のお花も都合400近くが送られてきたのだが、そのエンディングノートの色指定が逸早くアナウンスされたのが功を奏して、見事にオレンジと黄色で部屋中が埋まっていた。ただ一つ、当時の東京都知事、青島幸男さんのものを除いては。届けられた“白い菊の花”は即刻、2階のストレージに入れられてしまったのは言うまでもない。

そんな経験から、同時期から癌を患った母親(当時は夫婦で癌!といってマスコミに取り上げられていた)にも、自分がどう送られたいのか、何がどこにあるのか、何をどうすべきか、ということをこの5年ぐらいだろうか、ずっと聞き続けてきた。ちなみにこの母親というのは、筆者の3人目の母親(話が長くなるので詳細は割愛する)で、他に高齢の1人目の母親(これが実の母)というのもいて、こちらは用意周到な性格なので、80を過ぎた頃から、“その時”に断るべき新聞屋や牛乳屋の連絡先までワードで書類を制作してPCに入れている。

その3人目の母親が先日亡くなった。こっちは行き当たりばったりの男前な性格で、あれだけ言っていたにもかかわらず、大方の予想通り何も書くこともなく、何も喋ることなく逝ってしまった。まぁ我々も驚いたが、実は本人が一番驚いているだろうと思える程、あっという間だったのである。その12日前に、「ちょっと息苦しいから薬の調整で10日から2週間ぐらい癌研に入院するから送ってくれる?」などと言っていたし、担当医も状態を調整して帰りましょうと言っていたのだから、最後は相当な駆け足でいってしまったという感じだろうか。

さて、それからが大変な日々の始まりである。友人や仕事仲間から断片的な情報を掻き集めて、恐らくは気に入っていたらしいが全く所縁のない教会に飛び込みで話を付け、嫌がる神父さんと信徒たちを説き伏せて弦楽四重奏を持ち込み、多くの友人たちに見送られて葬儀は何とか無事に終えることが出来た。そこまではまだ良かったが、どこに何があるか、何をしていたのかさっぱり判らず、書類の山を一つ片づけるごとに何かしら新たなものが発覚し、最終的に出てきた銀行口座と証券口座、保険類の数の多さには正直驚いた。

他にも障害者手帳を持っていたために、区や公的な補助の類で届けなければならないものもすぐには判らず、この国の面倒臭いシステムにも閉口した。このようなことは誰でも普通に起こることだけに、結局本人よりも遺された者のために、本人が判り易くしておく必要があると思う。その煩わしさで悲しみを紛らわす、という人もいるけれど、それではきちんと送ってやることが出来ない。そのために準備をきちんとしておく、というのが終い支度の基本なのだろうと思う。“立つ鳥、後を濁さず”とは良く言ったものである。

人間、45歳を超えれば四捨五入すると100歳。ましてや50代も後半ともなれば、明日をも知れぬ命である。何が起きても不思議ではない。交通事故に遭う確率は宝くじより高く、明日行き倒れるかもしれないし、明後日孤独死を迎えるかもしれない。遺すべき財産もなく、後を継ぐ者もない、そんな自分のデスクには“その時”のために、1枚の紙が貼られている。そこには「行旅死亡人として扱うこと」としながら、一方で親友2人の連絡先である携帯電話の番号が記されている。誰にも迷惑はかけるまいと思っていたが、やはり無理か?!