時代の気分 Market Scope vol.190 Feb. 2013  文:石丸 淳

危ういボーダーライン

およそこの30年で進歩したテクノロジーは、様々な垣根を取り払ってしまった。もちろんそれは殆どの場合、“良いこと”となっている。
その中心となっているのが “スマートフォン”とPCである。すでにその2つの端末も概ねボーダーラインはなくなり、スマートフォンのPC化がどんどん進んでいる。さらにはコンピューター制御される家電との融合が進み、外出先から自宅の家電、例えばエアコンや洗濯機、照明などを操作できたりする訳だ。果ては電子レンジや炊飯器に至るまで、スマートフォンから各種設定や操作が出来るようになっている。

各家電メーカーは同様にそうした機能の開発を進めているが、Panasonicの“スマート家電”を参考に見てみると、まずは専用アプリをダウンロード。洗濯機は、濃度の違う新しい洗剤を使用する際、その洗剤のブランド情報から最適な使用量を表示させ、環境や経済的な配慮が可能になる。同様に、冷蔵庫ではエコ情報の管理や、電子レンジではレシピの検索後、準備をしたらスマートフォンを電子レンジにかざせば調理を始める、といった具合。最早、マニュアルは全てスマートフォンの中から呼び出せるから、家の中のブラック・ホールも怖くはない。

家電化しつつある自動車(その殆どをコンピューター制御している)も、スマートフォンで燃費を管理出来るようになりつつある。日本や欧米のメーカーも様々な機能で自動車とスマートフォン(あるいはICT)の融合を図っている。これもTOYOTAを例に挙げると、豊田章男社長は2011年の東京モーターショーでコンセプトカーの「Fun-Vii」の発表の際に「スマートフォンにタイヤをつけたような車両があっても良いのでは」と説明した。ボディ全体がディスプレイとして車体のデザインに使えるだけでなく、メッセージを表示することも出来る。
昨年にはその延長線上にあるコンセプトカー「Smart INSECT」が発表された」。Appleの「Siri」やNTT docomoの「しゃべってコンシェル」などと同じように音声認識による操作が出来る。また、クラウド上の「トヨタスマートセンター」を介して「人とクルマと家」を繋ぎ、Panasonicのように自宅の施錠やエアコンの確認が出来るというものだ。

こうしてみるとスマートフォンが様々なものを飲み込んで融合させていくインターフェースの中心にあるようだ。その象徴がAppleのiPhoneだろう。30年前の若者が持っていた多くのギアの機能を、小さなスマートフォン一つに全部まとめてしまったのだから。

ガジェットsからスマホへ

ケミカル(銀塩)からディジタルに変貌したカメラもその進化が著しく、記録媒体の容量が増えるに従い動画撮影もこなすようになった。そうすると動画専用機であったはずのビデオカメラとのボーダーがなくなり、一方のビデオカメラも静止画が撮れるようになって、お互いが相手の領域に足を踏み入れると、同じ機能を持ちながらも形態の違うものが2種存在する結果となってしまった。最終的に一つとなっていくのだろうが、それはデザインにも影響を与えるということなのだ。そして今やカメラは携帯電話のように通信機能まで持つようになってしまった。

スマートフォンとタブレットがこれだけ浸透してくると、他方PCはそちらへ針路を振り始めた。それが昨年発表されたWindows 8である。PCでスマートフォンのような、タッチによるコントロールが出来るようになった。

そうした端末の進化が進むと、今度はそれを使う人間の側にもボーダーラインがなくなってくる。プロフェッショナルと素人との垣根が危うくなってくるのだ。例えばグラフィック・デザインというものを考えてみた場合、近年(Macの登場以来?)その作業の殆どをPCでやるようになった。“普通の人”がいろいろなタイポグラフィ(フォント)を用い、書類などを作れるようになると、サインやフライヤーまで作るようになった。そして、それらの制作をサポートするソフトは、最もメジャーなWindowsのMicrosoft Officeであることが殆どである。

だがMicrosoft Officeは、基本的にデザインをするためのソフトではない。そしてWindows環境で標準的にバンドルされているフォントは、ワープロ・レベルであって高度なデザイン向けではない。端的に言えば印刷の原稿には適していないのである。ただ、作るのは誰でも出来る非常に簡単な作業となったために、世の中のありとあらゆる印刷物がデザインというレベルに達することなくプリンターから排出されることになった。そして美味しくないラーメン屋の店内を想像すれば判る通り、非常に安っぽいサイン、グラフィックの溢れた汚い世界が広がる。

この、身の回りにあるデザインが汚くなっているという事実は、進化の功罪でマイナス面の要素といえる。だから余計に手書きのものが新鮮に映り、最近見直されそういった道具が一部のファンを惹き付けているのだという。多少は汚くても手書きのメニューのほうがよっぽどマシで魅力的である。いかにもワードやパワーポイントで作り、インクジェットで出力したものを辺り一面貼り尽くすのは如何なものか。汚い!

その点Macは成り立ちからして全く違う。Macintosh生みの親の一人、スティーヴ・ジョブスさんは元々タイポグラフィなどに興味があり、魅力的なプロダクト・デザインだけではなく、そのコンピューターの画面に表示されるタイポグラフィにも関心が高く、その勉強をしていたという。このことがMacのデザインという世界に向けた環境を生んだ、根底に流れるものだと思う。いまだに印刷会社はデザインに関連する制作ソフトの環境をMac中心として動いている。ソフト自体はWindows向けにも用意されているにも関わらずだ……。

そうしてテクノロジーの発展に伴って曖昧になってきたボーダーラインだが、一方では国家や宗教間のボーダーラインのように、この“時代”によって明確化されようとしている。昨年来、何かにつけて政治に深く影を落としている尖閣諸島問題も、かつて中国との国交回復時に周恩来首相や鄧小平副主席と田中角栄内閣との間で、「次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と曖昧にされてきたが、結局今の時代のどちらの国の人々も全く知恵がなかったのだった。今般、その問題の原因となった尖閣諸島近辺の資源が必要とされるのも、テクノロジーの進化によって生じるエネルギーや電子関係の生産に関わることだったのは何とも皮肉な話ではある。

時代とともにテクノロジーの進化のスピードは上がる一方だ。幼児期からiPadなどのタブレットに慣れ親しんだ世代がこれからの社会を創っていく訳だから、もう我々ジジイとは全く別の世界観になっていくのだろう。彼等にとっては操作にも違和感なくそれらを受け入れることが出来る。それが正常な進化というものだ。この先、便利で驚くようなことは数多く起こるだろう。しかしそれらがすべて素敵なこととは限らないし、何もかもがボーダーレスになることが幸せとは限らない。……と、否定的な見解を述べていること自体、気付けば時代についていけてない。これも老いの一歩だろうか。いかんなぁ。