時代の気分 Market Scope vol.191 Mar. 2013  文:貴田 マリ

相変わらずの寒さにもかかわらず、3月と聞けば桜に思いをはせる方も多いことと思う。
あまたの花の中でも、古来より桜ほど和歌や物語、絵画、工芸品や着物の意匠などに使われているものはない。桜は日本全国に広く見られるが、南北に延びる日本列島の春の訪れとシンクロするように、三月下旬から“桜前線”が北上し、五月のゴールデンウィークに北海道で満開を迎えるまで、二ヶ月近くは桜の話題がそこかしこで取り上げられる。一斉に咲き競い、わずか一週間あまりで散るその姿は、日本の代表的な春の風景である。

古代より“花”と言えば、わが国では桜を意味していた。神代に大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)が天上から桜の枝に依り降り、木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と名付けられたと伝えられている。大山津見神とは、この大地の生み出すエネルギーを神格化したものであり、その発露は桜だった。このように桜は、その誕生から神格化された花とされてきた。現存する伊勢神宮の御神宝である御衣に、桜が用いられているのも当然であろう。桜の衣を身にまとうこととは、神威を身に帯び、不吉を祓って浄化するという意味があったのではないか。
奈良時代には、中国から輸入された梅が“花”と呼ばれ宮廷で珍重されたが、国風文化の影響からか平安時代には桜がふたたび花の代名詞となり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになった。

可憐な花の美しさは、花の盛りの短かさや散り際の華麗さと好対照をみせ、しばしば命の儚さにもなぞらえられる。満開の桜に“生”の息吹を感じ、潔く散る様に“死”を思う。そこには生を通じて死を透視するという、生と死が表裏一体となった、輪廻転生の世界が浮かび上がってくる。
桜を見る時、私達はその美しさを愛でるのみではなく、花によって自身の心の有り様が喚起され、思わぬ感慨に浸ることもある。また満開の桜の下に立ち、無数に重なった花のドームを見上げる時、そのまま自分も桜と同化し、花の群れに吸い込まれてしまうような錯覚にとらわれる。花に誘われ異界に引き込まれるような、陶酔といくばくかの怖れが混じった、不思議な感覚に包まれる。日本人にとって桜は、花の中でも個人の心に働きかけてくる特別な存在となっている。

桜が人の心をさわがせることは、今に始まったことではない。日本史上最高の色男と伝えられ、「伊勢物語」の主人公“むかし男”のモデルとされている在原業平の歌には、現代の私達と少しも変わらぬ桜への思い、そして何とはなしに落ち着かぬ春の心が表れている。

世の中に 絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし

(この世の中に全く桜がなかったとしたら、春の人の心はのんびりしたものであったろうに)

この歌は「伊勢物語」第八十二段、花見の場で詠まれたものだが、この章段は日本の古典文学で花見らしい花見を描いたものとしては、古い方に属するであろう。しかしそこには、現代の私達のお花見とさほど変わらない光景がひろがっている。多少長いが、原文を引用してみたい。

むかし、惟喬の親王(これたかのみこ)と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時右の馬頭(うまのかみ)なりける人を、常に率ておはしましけり。時世へてひさしくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。 いま狩する交野(かたの)の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木の下におり居て、枝を折りてかざしにさして、上中下(かみなかしも)みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる。

世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし

となむよみたりける。また人の歌、

散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにか久しかるべき

とてその木の下は立ちてかへるに、日暮になりぬ。

惟喬親王は、毎年桜の花盛りになると京の西、山崎の奥の水無瀬の離宮や、交野の渚の院に出掛けては、狩りを楽しみ花見をした。お供は在原業平(馬頭)や紀有常など気の合った家来達ばかりだった。狩りはそこそこで切り上げ、酒を飲み、桜の枝を折って烏帽子に飾り、“上中下(親王からお供の末にいたるまで、今で言えば社長から新入社員まで)みな歌よみけり”というのだ。歌とは和歌だが、業平の時代には和歌は漢詩に比べ、ずっと下と見なされていた。漢詩がクラシックなら、和歌はさしずめポップスあるいはラップというところか。親王のお供とはいえ決して堅苦しい花見ではなく、むしろ無礼講に近い雰囲気のようだ。

御供なる人、酒をもたせて野より出できたり。この酒を飲みてむとて、よきところをもとめゆくに、天の河といふところに至りぬ。親王に馬頭、大御酒まいる。親王ののたまひける、「交野を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて、歌よみて杯はさせ」とのたまうければ、かの馬頭よみて奉りける。

狩り暮らし棚機津女(たなばたつめ)に宿からむ
天の河原に我は来にけり

親王、歌をかへすがへす誦じ給うて、返しえし給はず。紀の有常御供に仕うまつれり。それが返し、

一とせにひとたびきます君まてば
宿かす人もあらじとぞ思ふ

交野からさらに天の河に場所を移し、酒と歌の宴は続く。親王が“交野を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて、歌よみて杯はさせ(交野で狩りをして、天の河に来たことを題にして歌を詠んだら飲もう)”と言えば、当意即妙に業平がそれに応えるなど、花見の宴はますます盛り上がっていく。

かへりて宮に入らせ給ひぬ。夜ふくるまで酒飲み物語りして、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月もかくれなむとすれば、かの馬頭のよめる。

あかなくにまだきも月のかくるるか
山の端にげて入れずもあらなむ

親王にかはりたてまつりて、紀の有常、

おしなべて峰もたひらになりななむ
山の端なくは月も入らじを

水無瀬の離宮に帰り着いても、宴は終わる気配も見せない。夜更けとともに、酔って寝所に入ろうとする親王に業平は、“飽かなくにまだきも月のかくるるか 山の端逃げて入れずもありなん”と引き留めたりする。今ならば“社長、まだまだ宵の口ですよ。逃げようたって逃がしやしません”というところだろうか。平安時代の貴族は恋と遊びが仕事とはいえ、何とも元気なことだ。現代人にはとうてい太刀打ちできない、などと余計なことまで考えてしまう。

このように惟喬親王や業平の時代、九世紀半ばから、日本のお花見には酒と歌が付き物だった。これは平安時代に日本での基盤を確立した陰陽道で、桜の“陰”と宴会の“陽”が対になっている、と解釈されていたことに起因するのかもしれない。
日本人にとってお花見は、千年を超えて脈々と受け継がれてきた、かけがえのない文化遺産だ。春の到来に心弾ませ、満開の桜の下で美味しいお酒を飲みながら、友と語り、花を愛でる。
お花見は、万人が享受できる贅沢な春の楽しみだ。千年後の日本でもこの素晴らしい文化が生き続け、人々がお花見を楽しんでいることを思うだけでも楽しくなってくる。

さて、今年の桜は早いか遅いか? 満開の週末のお天気は? などと今から気になって、桜が散るまで“春の心はのどけからまし”となりそうだ。