時代の気分 Market Scope vol.198 Oct. 2013  文:石丸 淳

好き嫌いと社会性

自分で言うのもどうかと思うが、私はとても好き嫌いが多い。これは食べ物だけではなく様々なモノやコトにおいてである。但し、例外はつきもので、クルマと女性についてはこの限りではない。この2つのカテゴリーでは、多少明らかなる問題があっても、どこかに良い部分を探そうとする寛大な自分がいるのだ。

とりあえずは食べ物の話をしようと思う。普通、子供の頃に食べられなかったものは、大人になるに従って食べられるようになるのが一般的だろう。しかし、筆者の場合は大人になって食べられなくなったものが多いのだ。
例えば雲丹である。これは子供の頃に渋谷で父親と2人暮らしをしていたアパートの大家が、所謂相撲界のタニマチだったようで、すべからく日本全国から数多のものが届いていた。何が生業なのかは小学生だった筆者には分からなかったが、その数はあまりに膨大でおいそれとはその家族だけで食べきれる量ではなかった。そこで登場するのは食いしん坊の近所の悪ガキ連合で、筏を一人当たり4枚も食べ、それをあてに日本酒をチビチビやったりしていたのであった。ところが今は全く食べる気がしない。思い返せば、この頃は間違いなく雲丹が好きだったはずなのに、嫌いになってしまったのだ。
ここで言う「嫌い」とは、「絶対に口に入れたくないもの」と「出来れば口に入れたくないもの」を含めたものになる。雲丹はこの後者に当てはまるもので、つまり積極的には食べたくないから自分で頼むことはない。しかし出されてしまった場合、仕方なく食べる。
もちろん美味しく感じられないから、好きなものでお腹を満たせなかったことに、ものすごく後悔する羽目になる。だから、注文する際には付け合せさえも出来るだけ食べたくないものを除外することにしている。せっかく好きなものを頼んだのに、添えてあるものが嫌いなものでは嫌なのである。
だからお店の方が嗜好を理解してくれているととても有難い。例えば、洋食では揚げ物にキャベツを付合せる例が多いが、生野菜を食べない筆者のために浅草の洋食屋では全部温菜にしてくれる。あるステーキ屋のランチではサラダではなく、全て野菜のグリルに変えてくれるといった具合だ。千切りキャベツを豚汁に放り込んだりもするとんかつ屋がある程だ。
その昔、小さな出版社を営んでいた頃、仕事の都合から有名レストランへも出入りしていたが、そこのシェフたちにうちのプロデューサーが筆者の嫌いなものを“唄”にして覚えさせようと試みていたこともあった。
何れにせよ、なぜそこまでやるかと言えば、お店に行って自分で頼んだものは責任を持って残さず全て食べたいからなのだ。そうしないと、今自分がこれを残したら、それはゴミになり、それはフードロスになると思うからだ。
スーパー・マーケットで買い物をする際も、賞味期限が一番残り少ないものを選ぶようにしている。それも、これが残ったらゴミになると思うからである。それにしてもどうして世の中のオバちゃんたちは、みんな日付をチェック、棚の奥の方から最新のものを取ってしまうのか。そんなに家に帰ってから保存をするのか? 恐らくはすぐに使うだろうに……。

一個人が食事で残りものを出さないようにしても、たかが知れている。しかし、残せないのはそういう性格もあるのだろうと思う。
あまり一緒に生活できなかった父親からは、「無理しないで残せ。残す勇気も大切なんだぞ」と言われ、某TV局の憧れの女性アナウンサーと食事をした時は「どうしてそこまでして食べるんですか?」と言われた。ま、これは舞い上がってしまって少々頼み過ぎたのだが、やはり残すことが出来なかったのだ。
最近になってもあるレストランで「石丸さん、これは食べ過ぎです」と言われ、定食屋でも「お止めになった方が……」と言われた。

有難いことに、みんな筆者が残せないことを知っていて、なお且つジジイになって食べられなくなって来ていることを理解しているからなのだった。何と温かい人々に囲まれているのだろう。いつからこうなったのか自分でも記憶が定かではないが、嫌いなものを残した皿が下げられて行くのを見ているうちに、これはなんという無駄なことだと思うようになったのかもしれないし、何よりも料理人に対して失礼だとも思ったのだろう。若い頃から料理人と仲良くなりたいと思い、喧嘩はしないと決めていたのも、美味しいものを食べたいと思っていたからだったのだ。

フードロス。思えば嫌な言葉である。食べることを大事にしたい、と思って生きてきた人間には殊の外、嫌な言葉だ。平成22年度の農林水産省による推計では、まだ食べられるのに廃棄される食品、所謂「フードロス」は年間約500~800万トンにも及ぶという。実にこれは世界全体の食料援助量(世界の飢餓、栄養不足人口は8億7千万人と言われている)の約2倍に当たる量で、何より問題なのはとりわけこの国、日本の食料自給率(カロリーベースだが)がたった40%であることだろう。消費量の6割を輸入で賄っているのにもかかわらずということだ。
そして長引く不況で日本国内にも確実に貧困層が増え、残念な事に親子で餓死をしたりするケースも報道されている。そこで最近ではフードバンクという、賞味期限が残り少ないなどの理由で廃棄されそうな食料品を企業から回収して、福祉施設等へ無償提供するボランティア活動などが根付きつつある。あるいは廃棄された食品、製造企業や生産者から出た食品残渣などを、再度加工して家畜の餌にするなどと見直されてきている。これらはある意味の“再資源化”と言えるだろうが、かつての日本社会に普通にあったことではないのか。

また、筆者が高校時代のアメリカ研修旅行で、お世話になったホスト・ファミリーに教えてもらった「ドギーバッグ、プリーズ!」という言葉。自分たちが残したものを家に持って帰るために、何となく気恥ずかしいから“犬のために持ち帰るのだ”という、ちょっと卑屈なアピールも、こんな時代になり胸を張って堂々と言える空気になってきている。
日本でも、料理を持ち帰る際のガイドラインを作成したり、飲食店でのドギーバッグ導入を促している「ドギーバッグ普及委員会」の活動が活発である。“MOTTAINAI”という言葉を世界レベルにしてくれたケニアのワンガリ・マータイさんの恩恵だろうか。

過多な食料廃棄問題は、もちろん日本だけの問題ではない。FAO(国際連合食糧農業機関)が今年の9月に発表した報告書では、世界で毎年13億トンもの夥しい量の廃棄物は、経済的損失を与えているだけでなく、天然資源に対しても重大な影響を及ぼしているとしている。これは食料廃棄物の影響を環境保全の観点から分析した最新の報告書であり、気候、水、土地の利用、生物多様性に与える影響に主眼を当ててリポートされているところが素晴らしい。
それによれば、消費されない食物には、ロシアのヴォルガ川の年間流量の3倍の水量を使用しており、地球の大気中に3.3ギガトンの温室効果ガスを増やしている原因になっているそうだ。さらに意外なのは、アジア地域で無駄にされる穀物、中でも米が膨大な量の廃棄と共に高いメタンガス排出量を生じさせているという事実だ。結局、廃棄は水の無駄に大きく寄与し、燃やせば大量の二酸化炭素排出量に貢献し、埋めれば埋立地を腐らせメタンガスを大量に発生させることとなり、これが主な有害温室効果ガスとなっているという訳だ。
これにFAO事務局長のグラジアノ・ダ・シルバ氏は、「約8.7億人が飢餓に苦しんでいる今日、生産される食料の3分の1が捨てられているという現実は、環境面だけでなく倫理上も理にそぐわない。我々はこれを容認することはできない」と付け加えた。今、世界中で議論が始まっており、欧州では2014年を「ヨーロッパ反食品廃棄物年」と位置づけ(欧州議会)、2020年までに食品廃棄物を半減させるための資源効率化の促進対策を加盟国に義務付け(欧州委員会)、食品廃棄物削減に取組むことになっている。
こうしたことに動きの鈍い日本も流石に重い腰を上げ、関係省庁(内閣府、消費者庁、農林水産省、経済産業省、環境省)と連携して推進体制を整備、業種毎の発生抑制の目標値を設定するなどの取り組みを始めた。そしてメーカー(製造)、ロジスティクス(流通)、リテール(小売)も集って、知恵を絞り始めている。一番大事なのはそれらの商習慣(メーカーからの納品期限と店頭での販売期限)の見直し改善と、我々消費者の意識改革、つまりフード・サプライ・チェーンすべてに及ぶことだろう。

最早、24時間営業のスーパーやコンビニがあるのだから、夜もそんなに遅くない時間に終業するリテールは、消費期限の早いものについて売り切ってしまうようなことを考えたらどうだろう。普段から食べ物への感謝の心を大切にすることで、少しは改善する問題なのではないかと思う。フードロスについては、弊社水野が理事長を務める「Think the Earth」でも、「フードロス・チャレンジ・プロジェクト」に取り組んでいるのでご覧いただきたい。